傍注

 

1Captain Maks BBS/救世軍大尉・山谷真の個人サイト「キャプテン・マクのページ」のメイン掲示板

2)ハリーポッター大論争ICF掲示板で展開された、児童文学『ハリー・ポッター』と、その著者ローリング女史をめぐる議論。「2001年末から2002年初頭におけるハリー・ポッター大激論を回顧する」を参照。

3)ラビットさまCaptain Maks BBSにおける数少ないコテハン。

4)キリスト教右翼思想80年代にレーガン政権を誕生させた新しい投票集団として登場した「キリスト教新右翼」と呼ばれる保守層。これに対し、ジョン・バーチ協会等は旧右翼と呼ばれる。

5)ラッシュドゥーニー/ルーサス・ジョン・ラッシュドゥーニー(19162001)。アルメニア王家の血を引く先祖代々アルメニア正教会聖職者の家柄。ウェストミンスター神学校で再建主義シンクタンク「カルケドン財団」を設立。女婿ゲイリー・ノース、グレッグ・バーンセン、デイビッド・チルトンら再建主義神学者・思想家を育てた。

6)ヴァンティルコーネリアス・ヴァンティル18951987)。プリンストン神学校ウェストミンスター神学校教授。再建主義に「前提主義」という理論的基盤を与えた。

7)ウェスレアン・アルミニウス主義/オランダ改革派教会神学者ヤーコブ・アルミニウスが17世紀に唱えた、?二重予定説の否定と、?神の恩恵を注入された人間の自由意志による救いの選択を骨子とする「アルミニウス主義」を、メソジスト教会創始者ジョン・ウェスレーが修正し、「神の恩恵を注入された人間は、自由意志により救いを拒否出来る」とした立場。修正アルミニウス主義、半アウグスティヌス主義とも言う。

8)ミレニアム/富井氏が主催する再建主義宣伝サイト。「ミレニアム」が、パーシャルプレテリズム派二契約論再建主義であるのに対し、亀井氏主宰のサイト「ドミニオン」は、パーシャルプレテリズム派非二契約論再建主義。谷口氏主宰のサイト「聖書的教育」はフルプレテリズム派再建主義である。

9)キリスト教護教論サイトアポロジェテイックス・インデックス。異端・非正統と推定されるキリスト教諸運動の情報を網羅する。

10)スコットランド長老教会大会声明/改革長老主義に立つスコットランド自由教会2001年の大会(最高決議機関)で採択した、再建主義を危惧する声明文。「スコットランド長老教会大会決議─セオノミーと信仰告白」及びその原文を参照。

11)『福音と世界』新教出版社が出している神学専門月刊誌。主流各教派のリベラルな教職と信徒を主な読者とする。

12)栗林輝夫氏/関西学院大学法学部教授で政治神学者・組織神学者。日本基督教学会会員、日本組織神学会会員、解放社会学会会員、国際アジア宗教哲学会会員。著書に『荊冠の神学』などがある。

13)聖書信仰/旧新約聖書66巻が原典において無誤無謬の神の言葉であると信じ、五つの根本教義(ファンダメンタルズ)すなわち、?イエスの受肉、?奇跡、?贖罪死、?復活と昇天、?再臨を固守する立場。

14)逐語霊感説/聖書が原典において一語一句誤り無く神によって記された言葉であるとする立場。

15)世界創造紀元前4004年説17世紀のアイルランド聖公会の歴史神学者ジェームズ・アッシャー主教が、聖書の年代研究により天地創造を紀元前40041022日の朝と推定した神学説。

16)救世軍の軍律/救世軍士官(伝道者)の信仰・実行・職務・規律を国際的に規定した『軍令及び軍律 救世軍士官の巻』。違反者は士官審査会議の調査を受け、相当する懲戒を受ける。

17)ウェストミンスター信仰告白/イギリスとスコットランドの神学者が合同で作製し1648年に国会で可決された、国教会のカルヴァン主義的・清教徒的信仰告白。英語圏のほぼすべての長老教会が採用。司法律法の廃棄を明言するのが特徴。

18)司法律法/旧約律法中の「刑法」「税法」「民法」「商法」に相当する部分。

19)イルミナティ陰謀論/独インゴルシュタット大学教会法学者アダム・ヴァイスハウプトがフリーメーソンを模して1776年に設立した、啓蒙主義と政治的自由の普及を目指す秘密結社。無政府主義的傾向ゆえに1785年に禁止されたが、イルミナティが今も影で現代世界を支配していると見るのが、イルミナティ陰謀論である。

20)小石泉氏/チャーチ・オブ・ゴッド教団(異言派)牧師。イルミナティ陰謀論者で歴史修正主義者のフリッツ・スプリングマイヤーの著作を精力的に翻訳紹介した。日本の陰謀学界の大御所・太田龍氏とも交流がある。

21)『ハーザー』マルコーシュ・パブリケーションが出版する、ペンテコステ派、カリスマ派、聖霊の第三の波派(福音派内聖霊派)の月刊オピニオン雑誌

22)吉井春人氏/日本長老教会東京中会、日野バイブルチャーチ牧師。クリスチャン・ホームスクーリングとチャーチスクーリングの紹介者・推進者。自らもホームスクーリングを実践している。東京ホームスクーリング祈祷会代表。フリースクール「遊勇舎」スタッフ。「ようこそ吉井春人のホームページ」では、ホームスクーリングを理解する各種資料が紹介されている。

23)ファンダメンタリズム/キリスト教の根本教義(ファンダメンタルズ)を固守する立場。

24)領域主権論/オランダ首相で改革派教会神学者のアブラハム・カイパー(1837-1920)が唱えた、カルヴァン主義による社会文化改革(文化命令)の前提となる、人間の文化を15の法領域に区分する神学説。

25)自然vs恩寵/スイスの神学文化研究所「ラブリ」を拠点に活動した神学者、故フランシス・A・シェーファー1912-1984)が提示した、現代思想の成り立ちを理解する枠組説。「自然と恩寵の二分法思考は必ず自然が恩寵を食い滅ぼす結果となり、理性への絶望が起きる」とする。

26)前提主義/「理性はアダムの堕罪により無能化しているので、聖書の啓示を出発点としない限り、人間はいかなる正しい認識も持ち得ない」とするヴァンティルが唱えた神学説。

27)再建主義の政治的テーゼ/国民全員がキリスト教に改宗した時点で総意に基づき、旧約律法を現代社会に厳格に適用する国政改革を行うとする綱要。予定表には、?公開処刑、?政治的・宗教的権威における男性優位、?所得税・資産税・相続税の全廃と十分一税導入、?経済への政府の干渉の全廃、?政府所管の福祉・医療の全廃と教区救貧制度導入、等がある。

28)真空の中間領域/「一般恩恵というものが存在せず、神と人間が直接対峙しているのなら、政治・司法・文化は神側につくか、悪魔側につくか二者択一であり、中間は存在しない」とする、再建主義の世界観。

29)ハインリッヒ・シュリーア/ドイツの新約聖書神学者。『キッテル新約聖書神学事典』執筆陣の一人。中間領域の天使的勢力について著書『新約における力と勢力』がある。

30)オスカー・クルマン/フランスの新約聖書神学者・歴史神学者。『キッテル新約聖書神学事典』執筆陣の一人。新約聖書を救済史と時間論の立場から分析し、中間時の中間領域における天使的勢力と中間倫理を解明した。

31)非神話化/新約聖書の終末論的性格を解明した神学者ブルトマンが提唱した、「新約聖書の世界観は現代人に通用しないから、聖書を非神話化して、現代人の世界観的文脈に再翻訳する必要がある」とする立場。

32)リベラル神学/伝統的な教義学による拘束を一旦離れて、文献学・考古学・心理学・宗教学・人類学・社会学等の合理的・科学的手法を駆使して聖書を分析し、そこから初代教会の信仰の本質を現代的文脈に再構成しようと試みる神学の総称。

33)『準備福音宣教』/日本宣教においてイエズス会士が注意すべき礼法、社会通念、手紙の書き方、茶の湯、接待、討論方法などを論じた便覧。

34ICF掲示板/ハンドルネーム「テモテ氏」が運営する、日本最大規模の超教派キリスト教ポータルサイト「インターネット・クリスチャン・フォーラム」の掲示板。

35)フルプレテリズム派/聖書の終末預言は紀元70年のエルサレム陥落時にすべて成就し、現在は再臨・復活・千年王国・最後の審判などがすべて過去の出来事となった「新天新地」であると見る立場。「過去派」とも言う。

36)パーシャルプレテリズム派/聖書の終末預言に記された災忌はすべて、紀元70年のエルサレム陥落時に成就したが、現在は「千年王国」に位置し、キリスト者が文化命令を完全に達成した未来のある時点で再臨が起きるとする立場。「未来派」とも言う。

37)信条主義/世界信条や歴史的諸信条など、特定の信仰箇条に立脚して自己の正統性を主張する立場。

38)非信条主義/聖書そのもの・主観的体験・各個教会の信仰と実行における独立自治等を重視し、特定の信仰箇条に必ずしもとらわれない立場。あるいは、自己の正統性は、信仰箇条だけに立脚するのではないと見る立場。

39)二契約論/ドイツの改革派教会神学者ヨハンネス・コッツェーユス(16031669)が1648年に『神の契約と約束に関する教理大全』において提唱した、旧約聖書と新約聖書の関係を契約概念を使って統一的に理解しようとする神学説。契約神学と呼ばれる。17世紀以降、改革派神学の主流に採用されたものの、コッツェーユス自身はカルヴァン主義的正統主義には反対していた。コッツェーユスの思想は欧州大陸から英国諸島、さらにアメリカに継承され、ウェストミンスター信仰告白の背骨を成すスコットランド契約神学や、ニューイングランドのピューリタン契約神学へと発展した。19世紀の自由主義神学の台頭と共に忘却されたが、20世紀に入り、カール・バルトが再発見し、『教会教義学』において詳細に紹介し、バルト神学の根幹に取り入れられた。

40)非二契約論再建主義/二契約論における第一のアダムの「業の契約」が、「自律と自然」の侵入地点となっていることを危惧し、これを回避するために、第一のアダムも「恵みの契約」の下にあったと主張する再建主義。二契約論的なウェストミンスター信仰告白を批判し、結果的には、非信条主義的傾向を帯びざるを得なくなる。

41)二契約論再建主義/第一のアダムが「業の契約」のもとで堕落し、第二のアダム(キリスト)が「恵みの契約」のもとで地の支配を回復したとする、正統的契約神学を固守する再建主義。

42)インフラ・ラプサリア二ズム/堕罪後予定説。スープラ・ラプサリア二ズム(堕罪前予定説)が、その絶対恩寵による決定論のゆえに、宇宙から自律の領域を完全消去することになるので、その行き過ぎを危惧して、二重予定説を緩和させた穏健な予定説。非二契約論再建主義は第一のアダムも第二のアダムも共に「恵みの契約」の下にあるとするので、非二契約論再建主義が二重予定説を選択すると、「恩寵+恩寵」の組み合わせとなり、宇宙は完全に決定論的世界となってしまう。そこで、これを回避するには必然的に、自律の原因をインフラ・ラプラサリア二ズムに求めるしかないことになる。

43)穏健なカルヴィニズムと間一髪の差しかないウェスレアン・アルミニアニズム/カルヴァン主義メソジストのジョージ・ホウィットフィールドに対して、ジョン・ウェスレーが自己の立場を説明した言葉。ウェスレーによれば、「人間の自由意志は神の恩恵によって支えられているので、提供された救いを、注入された恩恵の助けを借りて、受け取ることが可能であるし、また、救いを拒否することも可能である」という。そして、この「拒否出来る」というただ一点においてウェスレアン・アルミニウス主義はカルヴァン主義と説を異にするという。これを「間一髪の差しかない」と呼ぶ。

44)国家権力を持つ天使的勢力/新約聖書ギリシャ語本文における「エクスーシア」という用語が、国家権力と天使的勢力の両義を持つことに着目して、新約聖書神学者オスカー・クルマンが『キリストと時』で明らかにした超自然的な中間領域。

45)スティーブン・ウィルキンズ牧師/ルイジアナ州モンローのオーバーンアヴェニュー長老教会牧師。神学者・歴史学者で歴史修正主義者。南部同盟理事会理事

46)オランダ改革派教会/南アフリカ・オランダ改革派教会。聖書に基づいて異人種間結婚の禁止と、人種隔離政策を肯定した。人種隔離政策廃止後、その神学的過誤を認める声明を発表した。

47)世界信条/古代教会において作成された使徒信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、アタナシウス信条、カルケドン信条を指す。

48)歴史的諸信仰告白/世界信条成立以降、特に宗教改革以降、各教派の成立過程で作成された数多くある諸信仰告白。大小教理問答書、アウグスブルク信仰告白、和協信条、ハイデルベルク信仰告白、スイス信条、ドルト信条、ベルギー信条、ウェストミンスター信仰告白、アイルランド聖公会大綱、三十九ヵ条、メソジスト信仰告白等が著名。近年のものとしてはエキュメニカル運動のリマ宣言、福音派のローザンヌ誓約がある。

49)自然法/一般恩恵によって神から人間の良心に授けられた、時代・地理・文化を越える普遍法。人定法に対し、自然法は旧約律法と共に神定法であるとされる。それゆえ「神の指によって記された自然法と律法」として並び称される。近代以降、自然法の神的起源は合理主義的解釈に置き換えられた。再建主義は一般恩恵の存在を否定し、自然法を人間中心主義(自律)として批判し、「サタン的」と呼ぶ。

50)自然の光/スコラ神学における、「恩寵の光」への対立概念。人間は、神・世界・天使・霊魂など形而上学的存在については、「恩寵の光」と呼ばれる特殊恩恵(聖霊の照明、聖書の啓示、信仰の賜物)によらなければ知解することが出来ない。これに対し、時空の連続体の内部における現象については、「自然の光」と呼ばれる一般恩恵(理性の光、一般啓示、自然法)の助けを受けた理性によって、知解することが出来る。この「自然の光」という概念は西方教会で広く受容され、大陸系改革派信条であるベルギー信条に出てくる。なお、カルヴァンは、異教徒にも与えられている理性の光が、聖霊の照明に他ならないことを、『キリスト教綱要』で論じている。すると、一般恩恵も特殊恩恵も、両者共にひとつの聖霊の働きの、ふたつの機能であることになる。

51大陸系の改革派諸信条/ハイデルベルク信仰告白、第一スイス信条、第二スイス信条、フランス信条、ベルギー信条、ドルト信条等が著名である。

52)前千年期王国再臨論/世の終わりにおいてキリストが再臨し、悪を掃討して、地上に至福千年王国を樹立するという終末論。千年期(千年王国)の前に再臨があるとするので、前千年期再臨説(プレミレニアリズム)と言う。これに対し、千年期の終わりに再臨があるとする立場を、後千年期再臨説(ポストミレニアリズム)と呼ぶ。また、黙示録はローマ帝国のキリスト教徒迫害を象徴的に描いたものであると捉える無千年期説(アミレニアリズム)あるいは歴史的千年期説がある。再建主義は、キリスト者が文化命令を履行し、司法律法を現代社会に厳格に適用することによって千年王国を実現し、その完成の後に再臨が起きると見る。なお、二世紀小アジアの司教パピアスは前千年期再臨説を採用しており、リベラル神学の様式史批評の解釈学的手法である「生活の座」(ジッツ・イン・レーベン)を黙示録に適用するなら、黙示録は第二世紀小アジアのキリスト者の終末観を集成した信仰告白文書であるのだから、当然のことながら、黙示録は当時小アジアに流布していた前千年期再臨説の視点で書かれたものであると推定されるし、また、そのように受け取るべきである、つまり、字義通り解釈すべきである、ということになる。ところで、古代教会において前千年期再臨説が異説視されるようになったのは、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教に改宗したことによって、従前のローマ皇帝を反キリスト視する終末観が大規模な構図の書き換えを余儀無くされたためであろう。それが一番良く現われているのが、皇帝コンスタンティヌスを「神の代理人」と讃える頌栄を書いた四世紀の歴史神学者エウセビオスが、同じ筆で二世紀のパピアスと前千年期再臨論を批判的調子で書いていることである。この、キリスト教公認と国教化で変更された終末論は、アウグスティヌスの『神の国』において、無千年期説あるいは歴史的千年期説として、理論的完成を見た。

53)カール・バルト/スイスの神学者。『ローマ書』『教会教義学』を著し、現代神学と現代思想に大きな影響を与えた。「中世のトマス・アクィナスに次ぐ神学の巨人」とする評価もある。第一次世界大戦後の西欧文明の精神的危機状況の中で、バルトはブルンナー、ブルトマン、ゴーガルテンらと共に「弁証法神学」と呼ばれる新しい神学運動を指導した。従来のリベラル神学が宗教学的・心理学的・歴史学的・合理主義的アプローチを行って来たのに対し、弁証法神学は、人間理性の限界性とキリストにおける啓示の絶対性を根幹に据えた。「弁証法神学」と呼ばれるゆえんは、絶望の深淵において希望を体験するというキェルケゴールの弁証法的実存主義から来ており、「相対的な人間の言葉において啓示された絶対的な神の言葉」や「罪人の頭であり同時に聖なる者とされたキリスト者」など、対立概念の止揚(シェーファーが言うところの「信仰の飛躍」)において、神の救いの出来事が生起するとする。弁証法神学は、?啓示と理性の関係に注目したブルンナー、?新約聖書の世界観の非神話化を唱えたブルトマン、?実存主義的人間観を取り入れたゴーガルテン、?理性を無能力視し、聖書における神の啓示の絶対性に集中したバルトへと、四分裂した。特に、バルトとブルンナーの間で行われた「自然vs恩寵」と「イマゴ・デイ」をめぐる論争は、有名である。バルトは17世紀の神学者コッツェーユスの契約神学をピューリタンの著作を通じて再発見し、自己の神学の根幹部分に取り入れて、現代神学に復活させた。教会と政治の問題については、バルトは「教会は政治を通じて神に奉仕する責任を持つ」と説き、ルター派教会の政教分離とは異なる立場を取った。その意味では再建主義に近いとも言える。しかし、再建主義が司法律法の現代社会への厳格な適用を主張するのに対して、バルトはキリストの刑死をもってあらゆる罪人の死刑は完了されたのであり、もって、死刑制度は廃止されるべきであると説く。また、律法は福音のパースペクティブを通じて「のみ」理解されるべきであるとし、司法律法を現代社会にそのまま適用せよと主張する再建主義の「福音を律法のパースペクティブから捉える」立場とは、逆に位置する。

54)ヴィザンチン文化/フランシス・A・シェーファーの用語としての「ヴィザンチン文化」は、ルネサンス以降の自律的な自然の領域を認める世界観的パラダイムに対して、「恩寵がすべての存在を支配し、自律的な自然の領域が微小または薄弱である世界観的パラダイム」を意味する。ヴィザンチン文化の恩寵中心の神学と文化としては、?聖霊の神学、?普遍救済的な万物の栄光の神学、?恩寵の世界を絵筆で描写したイコン、?神の代理人である東ローマ皇帝による政教一致の神政政治的国家観、等を挙げることが出来る。

55)イマゴ・デイ/創世記の「神は人を御自分のかたちに似せてつくられた」という真理命題を根拠に形成された、人間の中に存在する「神の像」についての神学説。スコラ学においてはイマゴ・デイを、?「イマゴ」すなわち、人間に生来的に与えられている理性能力と、?「シミリトゥード」すなわち、救いの恩恵によって聖霊が人間の内に作り出した神に似た性質と、二つに区別して考えた。宗教改革者はスコラ神学排斥の立場からイマゴ・デイを否定しようとしたが、堕罪の後の人間の理性能力の存在を上手く説明することが出来ず、やむなく「イマゴ・デイは理性能力に限って部分的に残存している」とする分量説を採らざるを得なかった。人間の理性能力を重んじるブルンナーと、人間の理性能力の徹底的無力を言うバルトは、イマゴ・デイをめぐって神学論争を行った。これが有名な「イマゴ・デイ論争」である。これにより二人は袂を分かつ結果となった。ブルンナーは「イマゴ・デイとは神に対する人間の応答責任能力である」とし、バルトは「イマゴ・デイとは男と女とに作られた人間の、三位一体の類比型としての関係性である」とした。堕罪後の人間の理性能力、あるいは、聖霊の内住を受けていない異教徒の理性能力については、「イマゴ・デイ」によって説明するか、「一般恩恵」によって説明するか、神学的には二つしか方法がない。カルヴァンはイマゴ・デイよりはむしろ、一般恩恵を説明概念として採用しており、「一般恩恵とは、堕罪後の、救いの選びから漏れた人間(非選民)に対して、秩序ある社会生活を可能にするために神が与えた、救いにまで導かない限定的な恩恵を指す」とした。これに対し、一般恩恵を否定するヴァンティルの前提主義に立脚する再建主義は、一般恩恵の不在を言うことから、必然的に、イマゴ・デイ説を採用するしか道がないことになる。この場合、イマゴ・デイとは何か、また、イマゴ・デイは堕罪の影響をどの程度まで受けたかについて、諸説定まらないために、再建主義の論理的アキレス腱になり得る可能性が大きい。

 

補注1

 

バルト神学における「中間領域」/世界史的にエポックメーキングな出来事とも言える、バルトの『ローマ書講解』の出版でしたが、その『ローマ書講解』自体には、中間領域における天使的勢力と国家権力の問題は、自明的には扱われていませんでした。しかし、19386月に、バルトはいくつかの牧師協議会において「義認と法」というタイトルで講演を行い、その中で、中間領域における天使的勢力と国家権力の問題を、明確に語りました。これは同年に出版され、「プロテスタント神学史において、これほどはっきりキリスト教信仰の立場から国家の在り方を論じた講演は今までになかった」とまで、評されているものです。以下、その講演より、「国家権力と天使的勢力」に関わる部分を抜粋します:

『カール・バルト著作集6』 「義認と法」pp.204-209より─

「近年になって初めて、『ローマ3:1及びテトス3:1でパウロが用い、またルカ福音書12:1においてもたまたま政治上の上司を現すために用いられている「権威」(エクスーシア)という言葉は、その他の場合にも新約聖書で複数形で現われるときには(あるいは、「すべての」(パサ)という言葉と共に単数形で現われるときには)いつも、聖書の世界像及び人間像の著しい特徴をなしている「天使的力の群れ」を意味している』という、昔から明白であった事情に、再び強い注意がむけられるようになった。この「権威」(エクスーシア)という言葉は、「支配」(アルカイ)、「支配者たち」(アルコンテス)、「権力」(デュナミス)、「王座」(スロノイ)、「権勢」(キュリステーテス)、「御使」(アンゲロイ)等々の言葉と同様のものであって、これらすべての言葉と概念の上から区別することは、恐らく困難であろう。(恐らくは、それは、それらの言葉と共に、「御使」という類概念にまとめられうるであろう。)すなわち、「権威」(エクスーシアイ)とは、造られた力でありながら、しかも不可見的・霊的・天的な力であって、他の被造物の中にありつつ、またその上にありつつ、或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである。ギュンター・デーンによってなされた指摘は、『新約聖書に述べられた教団が、国家・カイザル或いは王・国家の代表者たち・その働きのことを考えた場合、教団は、この国家において代表されそこに働いている天使的力の像を、眼前にしていたのである』という、すでに用語の上から生じて来る強い蓋然性を、さらに確実なものにする。われわれは、すでに、イエスを釈放するか或いは十字架につけるかというピラトに対してゆだねられた可能性を示すものとして、単数形で用いられた権威(エクスーシア)という概念のことを語った。また、われわれは、1コリント2:8では、「支配者たち」(アルコンテス)という概念によって、明らかに国家のことを考え、それと共に、天使的力を考えなければならないのであるが、これとても同様である。『このことによって明らかに示されているのは、国家というものが、どのようにローマ13章で述べられているような神の意志と定めによって定められた法の擁護者から、黙示録13章に述べられているような竜によって力を与えられ・皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神をけがし・全世界を征服する底なき所から上がる獣にまで、成りうるかということである』と主張されているのは正しい。天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し、かくてデーモン(悪鬼的)力となりうるのである。・・・・・・以上のようなすべてのことが、政治的な天使的力にも適用された場合、どういう結果になるのであろうか。それは、言うまでもなく、この力が─国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属しているということである。すなわち、国家は、その相対的な実質・価値・機能・目標設立によって、イエス・キリストの人格と御業に─したがって彼において起こった罪人の義認に、奉仕しなければならないということである。もちろん、国家は、デーモン化(悪鬼化)されうる。教団がデーモン化した国家を相手にするということが、いつも起こりうるということ、また事実起こるということを、新約聖書は隠しはしない。この見地から見ても、明らかに国家のデーモン化(悪鬼化)ということは、人々が通常強調して言うように、不当な自主化ということであるよりも、むしろその正当な相対的な自主性が喪失されるということであり、それ本来の実質・価値・機能・目標設定を放棄するということである。そして、やがてこの放棄と共に、皇帝礼拝とか国家神話とかその他のものが、結果的な現象として起こって来るのである。・・・・・・国家が教会に対して真実な正しい自由を与え、『わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごす』(1テモテ2:2)ことによっても、国家は真理に対して『局外中立的』(ニュートラル)なその存在を事実的に証明することができる。この事実を、われわれは、新約聖書の天使論の光に照らされる場合には、否定しえないのである。」

─以上のバルトの論考から見ても、新約聖書神学によって聖書テキストの緻密な注解を実施した場合、新約聖書の世界観的パラダイムにおける国家権力は、次のような像に結ばれるのが、明らかです。すなわち、「キリストによって創造され、キリストによって保持され、キリストに対して奉仕する天使的勢力が、神から領域主権を委ねられて、国家権力を行使するが、神に対して反逆し、悪鬼化したために、キリストの高挙によって打破され、武装解除され、中性化されて、キリストの再臨の日まで、なお、キリストの頭首権のもとで、領域主権の統治という任務を遂行し続ける、しかし、悪鬼的性格を潜在させまた時に顕在させることもある、中間領域の天使的勢力である」という「事実」が、不可避的結論となるのです。そうして、このような新約聖書の世界観的パラダイムに立つことが真の「前提主義」であるとするならば、再建主義の体系は、明らかに、不徹底かつ不完全な前提主義にほかならない、ということになるのです。

 

補注2

 

領域主権の概念の定義/今回の論争で「領域主権」という用語が二つの概念を指すことから、再建主義者側からは「領域主権について勉強し直せ」という注文をつけられました。小生も、領域主権の二つの概念について、ある文脈では「A概念」で、別の文脈では「B概念」で、場合によっては「A概念とB概念の混在」で、議論を進めてしまっていました。これは、自分の不勉強を大いに反省するところです。そこで、領域主権の二つの定義をここで明確にします。

領域主権の概念A「国際法学上の概念としての領域主権」─国家が自国領域内ですべての人と物を排他的に支配しうる絶対的権力のこと。主権国家は自国の領域内において、国際法で定める制限がない限り、原則として自由に排他的管轄権を行使できる。主権国家がもつこの権限は、領域主権または領土主権と呼ばれる。領域主権は、領域内にあるすべての人や物に対する支配権と、領域そのものを自由に使用あるいは処分できる権利を含んでいる。国は、自国の領域内にある物を利用するために、そしてそこにある人の行動を規律するために、国内法を自由に制定できる。

領域主権の概念B「アブラハム・カイパーの政治文化神学上の概念である領域主権」─主権は本来、絶対的超越者(神)が持つものであるが、一時的に人間の組織に委託され、かつ分散される。分散される場所は国家に限らず、十分発展を遂げた多様な市民の社会的領域においてであり、これを領域主権と呼ぶ。市民の社会的領域は「神の多様な創造の法」に則しており、創造の法は、宇宙論的な15の法領域に分岐している。すなわち、数的、空間的、運動的、物理的、生物的、感覚的、論理的、歴史的、言語的、社会的、経済的、美的、法的、倫理的、信仰的な、各法領域である。各法領域において「神の法に従属するもの」が主体であり、市民がこのような主体であるゆえに、キリストの頭首権的支配における統一性と、創造における文化の多様性が、市民社会において調和一致せしめられる。この場合で言う領域主権は「国家の絶対主権」に対置する「社会の分散主権」であるから、国際法上の領域主権という概念とは、異なったものとなる。

 

補注3

 

天使のサタン化について清水義樹「創造論・付天使」『教義学講座1・教義学要綱』日本基督教団出版局、pp.201-202より

見えない霊的存在である天使が、サタン化するということは、どういうことであるのか。この問題を念頭に置きながら、ローマ人への手紙131節以下の、上に立つ権威exusiaをとりあげたいと思う。これを天使的権力と考えるものと、それに反対するものとの両者が今日の神学界に存在している(前者がバルト、シュミット、デーン、クルマン。後者がキッテル、アルトハウス、ミヘルなどである)。キッテルは新約聖書で90回のうちほとんど80回までがexusiaは普通の権力を意味しているので、ローマ人への手紙のこの箇所も、世俗の国家権力の意味に解釈せねばならぬというのである。これに対してクルマンは、この言葉は単数使用のばあいは問題外として、複数使用、あるいはすべての権威というように単数の複数的意味の使用のばあいは、天使的権力に関係づけられているという。そしてパウロはローマ人への手紙のこの場所では、天使的権力を考えているといってよい。またパウロには世俗的意味でのexusiaを考えることを否定はしないが、彼の根本思想は天使的権力を考えているといわねばならない。地上の国家はこのような天使的権力の具現であり、機関である。パウロはコリント人への第一の手紙278節、63節でも、地上の国家支配のもとに見えない支配者を考えていることは明瞭であるといわれている。ローマ人への手紙のこのところでも、地上の国家支配者は神の僕であるということは、そのもとにある天使的権力が、神によって秩序づけられているからであると解釈せねばならない。

ところがこの同一の国家権力にキリスト者は、死をもって反対せねばならぬときがある。それはこの国家権力が、皇帝礼拝を強要するときである。ここに国家権力はサタン化するのである(黙示録13:1以下)。同一の国家権力が神の僕となるとともに、サタンとなるということは、その背後に天使的権力を考えるとき、よく理解できるといわれる。天使的権力がキリストの支配のもとにあるとき、その機関としての国家権力は、キリストに仕える。けれどもキリストの支配の外ではなく、支配のなかで、その支配から離れるとき、国家も自己目的化してサタン的になるのである。ここに終末的神の国にいたるまでの中間時代の特色があるといわねばならない。

 

補注4

 

再建主義者の聖職就任禁止決定/スコットランド長老教会(フリーチャーチ)は1997年の大会において、「再建主義は、スコットランド長老教会が服する信仰基準『ウェストミンスター信仰告白』に違反するゆえに、再建主義者がスコットランド長老教会の聖職者となることを禁止する」と決定しました。

 

再建主義大論争を回顧する

 

個人サイトの掲示板“Captain Mak’s BBS1に小生が書き込んだ「キリスト教再建主義」についての文章から火が燃え上がった今回の再建主義大論争。前回のハリー・ポッター大論争2で懲りたはずの小生でしたが、「この人、オカしいわ」「男なら、男らしく、堂々と出て来て議論しなさい」という挑発的煽りに思わず頭が切れてしまい、実名での神学論争に突入してしまいました。議論に白黒をつけることができたのか? そこは不明ですが、少なくとも、再建主義陣営を分断するという戦果を挙げることは出来たと思います。議論は一応沈静化しましたが、今後再建主義との論戦を志す方々の参考になればと思い、回顧録を残すことといたします。

 

1.発端となった書き込み

 

2003630日(月)午後43030秒に、個人サイト“Captain Mak’s BBS”掲示板に、小生はIPアドレス“i009100.ap.plala.or.jp”を使用して以下の文章を「ラビットさま」3宛に書き込みました。なお、×××の伏字及びイニシャル表記は、当初のままです。

わたしの記憶が正しければ、T様は牧師ではなく、信徒であると思います。
T様が主催している「×××××」というホームページは、再建主義を紹介し宣伝するためのサイトです。アメリカでは再建主義は、一部のクリスチャンの間で最も正統的な教義として強く支持されていますが、一般的には過激なキリスト教右翼思想
4として認知されています。
その内容は、現代社会に神政政治を樹立し、旧約聖書の律法に基づいた司法を行って、聖書に示された「正義」を「社会正義」として実現させることを目論むものです。創始者は、カルヴァン派の神学者ラッシュドゥーニー
5という人で、それをヴァン・ティル6やゲイリー・ノースといった神学者、思想家が継承発展させています。
ゲイリー・ノースの主張は特に過激であることで知られています。旧約聖書の律法に根拠した司法制度の下で「死刑」を執行させよ、と主張しています。レイプ、殺人、誘拐犯に対して死刑を執行するだけでなく、堕胎した母親を公開処刑にせよと主張しています。また、異端、冒瀆罪、魔法、魔術、占星術、姦淫、近親相姦、親を殴る子ども、矯正不能な非行少年、婚前交渉をした女性も、すべて死刑に処すべきだと主張しています。
このような過激な主張が出てくる理論的背景には、人間は自律的存在ではなく他律的存在であり、結局のところ、人間のすべての理性的判断は、神を信じる信仰と旧新約聖書の啓示に根拠して下されなければならないということです。
そして、聖書が「処刑せよ」と命じている限り、人間は純粋にそこだけを出発点として社会や司法を構築しなければならない、という考え方です。聖書の権威は絶対的であり、聖書の下す命令に対して、人間は絶対に服従しなければならない、ということです。
世俗的民主主義国家であるアメリカでは、自由を重んじますので、上記のような考え方が広く一般に受け入れられるわけは、当然ありません。今後アメリカで再建主義が支配的思潮になるとはとても考えにくいのです。
しかし、一部のまじめなクリスチャンの中には、アメリカの政治に再建主義が漸進的に浸透し、長い年月の後には、ついにアメリカに「神の支配」が回復され、かつての米国東岸のピューリタン入植地で行われたような「神政政治」が行われるようになる、と熱望している人たちもいます。
その場合、当然のことながら、ウェスレアン・アルミ二アン主義
7は異端として断罪されていますので(かのスコットランド改革派教会ですら、再建主義に照らすならば「アルミニアン的異端」だと断罪されています)。わたしなどは、首を洗って準備していなければなりません。

 

上記文章については、ひとつ、事実誤認があります。それは、上記文章中の下線部分です。正しくは「ヴァンティルの前提主義を土台として、ラッシュドゥーニーが再建主義を創始し、それをゲイリー・ノースやバーンセンら神学者・思想家が発展させた」と訂正いたします。なぜなら、コーネリアス・ヴァンティルは再建主義に大きな影響を与えはしたものの、ヴァンティル自身は司法律法の現代社会への適用を説きませんでした。その意味では、ヴァンティルを再建主義者と言うことができないからです。

 

さて、上記の書き込みをしてから半年後に、再建主義者からアクションがありました。日本において再建主義を宣伝しているサイト「ミレニアム」(8)の掲示板において、ハンドルネーム「ストレイシープ」氏が小生の書き込みの全文を引用して注意を喚起し、それに対してミレニアム主催者の富井氏が批判を加えるかたちで、反論が開始されました。

 

2.再建主義者からの反論

 

再建主義のサイト「ミレニアム」に最初に登場した反論は、次のものです。

 

「うわべによって人をさばかないで正しいさばきをしなさい」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/22tsAIzG6j87o25146.htm

 

思うに、「再建主義はアメリカでは一般に過激なキリスト教右翼思想であると認識されている」と小生が書いた部分が、再建主義者の気に障ったようです。しかし、小生が再建主義を「過激なキリスト教右翼思想」と書いたのには、米国のキリスト教護教論(9)サイトや、スコットランド長老教会大会声明(10)、さらに、『福音と世界』11200312月号に掲載された政治神学・組織神学者の栗林輝夫氏12の文章、さらに、再建主義最大の論客の一人ゲイリー・ノース氏の文章で確証を得ていたからであることを、申し添えておきましょう。ノース氏は、再建主義のシンクタンク「カルケドン財団」が、米国キリスト教新右翼の直接的な思想的源泉であると「明言」しているのです。

 

さて、再建主義側からの反論は、さらに次のように展開されて行きました。

 

「侵略戦争を抑止できないキリスト教は捨てられる2」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/66thqZJSxCgzw17149.htm

 

上記の反論では、ストレイシープ氏が「やっぱ、おかしいわ、このヒト。ICFでもやたらとハリー・ポッターの作者ローリングを美化賞賛し、いわゆる陰謀論を唱える人々をコケにしておりましたが、この大尉の経歴を読むと、元々オカルト少年だったようです」と揶揄し、これに対して富井氏が「ん~、相当、オカシイわ」とレスしています。

 

ところが、反論はそれで終わることはありませんでした。

 

「クリスチャンが聖書を過激呼ばわりしていいのか?」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/90j4NfFvKppSU72631.htm

 

上記の反論では、小生が本来意図した「堕胎者の公開処刑等を主張するから過激だ」という発言が、恣意的にすりかえられ、「聖書に記されている命令をその通り行うことは過激だ」と主張していることにされ、それゆえ「聖書を過激呼ばわりする者は、聖書信仰13に立っていないのだから、救世軍は聖書信仰から逸脱している」という批判が展開されるに至りました。

 

さらに反論が続きました。

 

「非聖書信仰の教師を受け入れるキリスト教団体の運命」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/17fC3gr88kx7U95356.htm

 

上記の反論では、「聖書信仰に立っているなら、当然、再建主義の妥当性を認めるはずである。聖書信仰に立たない者を、救世軍は、即時免職すべきである」という批判が展開されました。

聖書信仰に立つなら必ず再建主義の論理的正統性が立証されるはずだ、という、あまりに勝手な思い込みに対して、「逐語霊感説14を採り、世界創造紀元前4004年説15に立つファンダメンタリスト」としての小生は、「そんなわけないでしょ!」と思わず叫びたくなりました。

 

そうして、ついに「救世軍の軍律違反16だ!」との反論がなされるに至りました。

 

「救世軍の軍律違反じゃないですか?」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/2715jOBJBQgJ05601.htm

 

聖書の教えに反する秘密結社に属することは救世軍の軍律違反だから、「聖書に命じてあることは過激だ」という反聖書思想を抱いている小生は、当然、軍律違反に相当するではないか? こう来たわけです。

そこで小生は、「じゃあ、ウェストミンスター信仰告白17は司法律法18の廃棄を言っているのだから、再建主義者はウェストミンスター信仰告白違反じゃないの?」と、突っ込みたくなったわけです。

 

さらに、小生を議論に引きずり出すに至った最終的な挑戦の言葉が発せられました。

 

「男なら正々堂々と議論の場に出ましょう!」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/71ESwpAmNeUj30780.htm

 

上記反論の中の「男らしく堂々と出て来い」という言葉。これが、小生の前回のハリー・ポッター大論争のときの「小石トラウマ」をフラッシュバックさせることとなったのです。前回の論争で、実名で堂々と登場されたイルミナティ陰謀論19の総帥・小石泉氏20に対して、あくまでハンドルネームに隠れて逃げおおせようとした小生に対し、「男らしく実名で出て来い」「女々しいやつだ」との批判が浴びせられました。そのトラウマが一気によみがえったのです。これで完全に切れてしまいました。「そうですか。それならこっちも実名でリングに上がりましょう。しかし、やるなら、徹底的にやりますよ。小生をひっぱり出したことを必ず後悔させてあげましょう」という、完全粘着モードで論戦に出て行くことを決めたのでした。

 

3.ミレニアム掲示板での論戦

 

かくて、再建主義の是非をめぐる実名対決が、ミレニアム掲示板で開始されたわけです。しかし、小生がこの議論に入る前に、すでに、いろいろな方々が再建主義を憂慮して、警鐘を鳴らして来られました。

聖霊派からは、那須の宣教師訓練センター所長で、日本リバイバル同盟の重鎮、『リバイバル新聞』論説委員である奥山実氏が、雑誌『ハーザー』21誌上で、再建主義批判を展開されました。ホームスクーリング運動からは、日本長老教会牧師・吉井春人氏22がご自分のホームページにおいて、再建主義を危惧するスコットランド長老教会大会声明文を全文紹介しつつ、再建主義への憂慮を述べられました。リベラル派からは、関西学院大学法学部教授・栗林輝夫氏が『福音と世界』200312月号で、米国新右翼に対する再建主義の影響力を指摘されました。これら三氏と再建主義者である富井氏との議論履歴の大要は、すべてミレニアムのサイト上で公開されていましたので、小生は、自分のディベート戦略を構築する上で、非常に参考になりました。

小生の立てた方針は、次のようなものです。

 

(1)             最強かつ真正の聖書信仰を自負する再建主義者を論破するには、こちら側も厳正なファンダメンタリズム23かつ聖書信仰に、最後まで徹しなければならない。

(2)             アブラハム・カイパーの「領域主権論」24、フランシス・シェーファーの「自然vs恩寵」25、ヴァンティルの「前提主義」26から、ほとんどすべての理論的影響を受けている再建主義者を論破するには、「領域主権論」「自然vs恩寵」「前提主義」という理論的枠組みを、こちら側に有利に活用すること。

(3)             再建主義の政治的テーゼ27すべてを成り立たせる思想的大前提である「ヒューマニズムが支配する真空の中間領域」28を、ハインリッヒ・シュリーア29やオスカー・クルマン30が明らかにした「新約聖書神学における天使的勢力」のパラダイムを使用して、完全にひっくりかえすこと。このために、「ファンダメンタリストは、非神話化31のプロセスを省略することによって、リベラル神学32を下女として用いることができること、あたかも、アリストテレス哲学のスコラ神学に対する関係のごとし」というモットーで戦う。

(4)             「自然vs恩寵」という大雑把な枠組みの前提主義で突き進む再建主義を、こちら側が徹底的な前提主義に立って個別問題を詳細に突っつくことによって、ぼろを出させ、実は再建主義は本当に前提主義に立っているわけではないことを、明白にさせる。このために「奴隷制度」「男女平等共同参画社会」「利子付債務」の問題を、徹底的に突く。

 

以上の方針を立てて、ディベートを開始しました。この論戦で常に心に留めていたのは、キリシタン時代のイエズス会宣教師が著した『準備福音宣教』33(プレエバンヘリサシオン)のマニュアルに記載された、「相手の戸口から入って、自分の戸口から出る」という議論方法でした。

 

いよいよ、論戦が始まりました。しかし、いかんせん、ミレニアム掲示板という、再建主義者側の土俵ですので、やりとりの省略表記のされ方、反論レスのつけ方が、どうしても、相手側の有利に「見える」ように進められてしまうことが、小生にとっては不満でした。もっと使い勝手の良い、ICF掲示板34に論戦を移行させることが出来たなら。そのことは、論戦の始めからすでに感じていたことです。実に、34回にも及んだ論戦の記録が、下記のように、ミレニアムのサイト上で公開されています。

 

「救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する」

http://www.path.ne.jp/~millnm/yamat.htm

 

ところが、「奴隷制度」「男女平等共同参画社会」についての、どこまでも食い下がるこちら側の議論に対して、富井氏側がついに「くどい」と音を上げ、小生に対してアクセス禁止処置を取られるに至りました。次の通りです。

 

「山谷さんばかり質問してるので」

http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/82r4EItoWEjoo03286.htm

 

ここにおいて、富井氏が四つの問題を提示し、これに小生が回答したならば、議論を再開しようとの申し出をされました。「これは、もっと議論をやりやすい環境であるICF掲示板に移行するチャンス到来」と思い、すでにハンドルネーム「レフリー富山」なる人物がICF掲示板に立てていた議論ウォッチング・スレッド「富井氏とまこと大尉のガチンコ対決勃発!」を利用して、さらなる議論の継続を下記のように開始しました。

 

「富井氏とまこと大尉のガチンコ対決勃発!」

http://www.christian.jp/cbbs/cbbs.cgi?mode=al2&namber=27687

 

4.ICF掲示板での議論

 

ICF掲示板で「富井氏とまこと大尉のガチンコ対決勃発!」のスレッドが、全文削除されてしまいました(2004428日現在確認済)。ログの復活が今後ICFにて行われるかどうか不明ですが、復活されるまで暫定的に、当方にて保存しておいたログを以下にリンクしておきます。

 

「富井氏とまこと大尉のガチンコ対決勃発!」

http://web.archive.org/web/20070223070735/http://www.salvos.com/makotoyamaya/debate_at_icf.html

 

こちら側のペースで議論を展開できる自由をICF掲示板で得てからは、新たに大きな収穫を得ました。それは、再建主義陣営の中で深刻な路線対立が存在しているという事実が判明したことです。ヴァンティルの前提主義に立っているとは言いながら、再建主義陣営の中には、終末論理解をめぐって、絶対に相容れることの出来ない二つの思想的立場が存在していたのです。ひとつは、キリストの再臨が紀元70年のエルサレム陥落の際に起きたと考える「過去派」すなわち、フルプレテリズム派35。そうして、終末預言の大部分は紀元70年に成就したが、キリストの再臨だけはまだ起きていないと考える「未来派」すなわち、パーシャルプレテリズム派36

この二派の行き違いは深刻なものであり、富井氏はこの議論が始まる以前からすでに、フルプレテリズム派の異端的傾向を危惧する文章を、ミレニアムのサイト上で幾度となく公開しておられました。

さらにまた、もう一人の再建主義者である亀井氏との、ウェストミンスター信仰告白をめぐる「信条主義」37か「非信条主義」38かの議論を通して、パーシャルプレテリズム派の内部も、決して一枚岩ではないことが判明して来ました。つまり、パーシャルプレテリズム派の中に、二契約論39を非聖書的な「自律と自然」の侵入地点として問題視する「非二契約論再建主義」40と、保守的な改革派神学に忠誠を尽くし、古典的二契約論を固守する「二契約論再建主義」41との、ふたつの大きな異論が存在することがわかって来たのです。

 

そこで、ディベートの戦略を以下のように、改めて立て直しました。

 

(1)             字義的な聖書解釈によって矛盾を指摘することが容易なフルプレテリズム派をメインに議論を進め、「フルプレテリズムの矛盾イクォール再建主義の矛盾」という展開に持って行く。これにより、パーシャルプレテリズム派とフルプレテリズム派の分断を図る。

(2)             パーシャルプレテリズム派とフルプレテリズム派を分断した後、さらに、非二契約論再建主義(非信条派)と二契約論再建主義(信条派)の相違に焦点に絞って議論を進め、ここでシェーファーの「自然vs恩寵」の枠組み説を適用して、二契約論再建主義が「理性への絶望」と「理性からの逃走」に至る論理的宿命にあることを突く。

(3)             最後に、非二契約論再建主義が二重予定説との組み合わせによって「自律の領域が全く存在しない絶対恩寵による決定論的世界」になってしまわないためには、インフラ・ラプサリアニズム(堕罪後予定説)42を採用しなければならず、そうしないと、世界から自律の領域が消失して、再建主義の政治的テーゼが論理的に破綻する宿命にあることを突く。こうして、必然的にインフラ・ラプサリア二ズムとの組み合わせを選択するしか道がない非二契約論再建主義は、「穏健なカルヴィニズムと間一髪の差しかないウェスレアン・アルミニアニズム」43と実質的に「大差がない」ことを明らかにし、これをもって、「ウェスレアン・アルミニアンは再建主義に対して何ら有効な反論をなし得る立場にない」としてきた再建主義側の従来の持論を完全に覆す。

 

しかし、このような新たなディベート戦略を立てたものの、ICF掲示板でのこちら側に有利なペースで進める議論は、「自分の信条を絶対的なものとして押し付けてはならない」というICF規約に抵触する恐れがあり、また実際、抵触しているかもしれないとの感覚が自分にも薄っすらとありましたので、一旦議論を収めることとしました。その後は、個人の日記サイトにおいて、エッセイというかたちで、こちら側の主張を続けることとしました。

 

5.日記での主張の継続

 

フルプレテリズム再建主義への反論、奴隷制度、一般恩恵、二契約論などのテーマについて、以下のようなエッセイを掲載しました。

 

ストイケイア

 

あるフルプレテリストの文章を読んでいたら、コロサイ書2:8の「ストイケイア」という言葉を「この世の幼稚な教え」と訳していたので、驚愕した。
ストイケイアとは、字義通りには、宇宙を構成する四大元素のことであり、さらにまた、「宇宙の構成に関わる諸霊」をも指す言葉である。だから、新共同訳では、2:8を「世を支配する諸霊」と訳しているのだ。
再建主義者にせよ、プレテリストにせよ、どうも、新約時代の世界観的前提について無知であるというか、あるいは、「中間時の中間領域を占める天使的勢力」を、意図的に無視しようとしているとしか、思えない。
たとえば、パウロの「空中の権を持つ君」という言葉は、新約聖書神学に基づいて訳すなら、「中間領域において国家権力を持つ天使的勢力」
44と訳すことが可能である。しかも、これを、字義通りの解釈と言っても、さしつかえのないものである。
ところが、再建主義者にとっては、このような解釈が存在することは非常に不都合なことなのであって、中間領域において国家権力を持つのが天使的勢力であるのなら、再建主義のすべての実践目的が崩壊してしまうからだ。
先に述べたストイケイアにしても、そこを「幼稚な教え」というふうに「超訳」することによって、結論的には、ペテロの手紙の「天の万象が焼け落ちる」という言葉を、「旧約の古い秩序の崩壊を意味するのであって、文字通りの万象の崩壊を意味するのではない」というふうに、持って行こうとする。
これなども、新約聖書神学が明らかにした、天使的勢力についての聖書の世界観的パラダイムを、意図的に無視することによって、自説に都合のよい聖書解釈を導き出そうとする、人為的操作の例である。
天使的勢力についての理解がぞっくり抜け落ちているところを見ると、どうもやはり、再建主義にせよ、プレテリズムにせよ、「近代的世界観の産物」に過ぎないという確信を、いよいよ深めているところである。

 

2004年2月5日(木)の日記より

 

古い天地が過ぎ去れば?
 

ドン・K・プレストン師曰く:

 

 「神はイスラエルの天と地をシナイ山で造られました。しかし、キリストの新
 しい創造に道をあけるためにその世界は滅ぼされるべきでした。
 イザヤはこれを65章で預言しました。神はイスラエルを滅ぼし、新しい名前
 で呼ばれる新しい民を造り、彼らに新しい天と地を与えるというのです。
 これは物質的世界ではなく、契約の世界のことです。これがイエスがマタイ
 24章で、エルサレムの崩壊を預言されたときに、『この天地は滅び去りま
 す。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません』と言われた
 理由です。ヘブル12章ではシナイ山で建てられた天と地が過ぎ去り、教会と
 いう揺るぎない神の王国について語られています」

 

これを斜め読みすると、「イスラエル契約共同体こそが、古い天と地であり、新約聖書が言う『古い天と地は過ぎ去る』という表現は、イスラエル契約共同体が終焉すること。『新しい天と地が出現する』という表現は、キリスト教共同体(教会)が永遠に続くことを意味する」ということになる。
だから、文字通り、天地宇宙が消え去るようなカタストロフが終末において起きるわけではなく、また、新しい天地が創造されるわけでもない。ユダヤ人がクリスチャンにとって代わられることに過ぎないわけだ。
しかしそうなると、次の疑問が起こる。
イスラエル契約共同体が終焉するなら、その存在を規定する「律法」もまた終焉してしまうことになるのではないか?(古い天と地は過ぎ去り)。そうなると、司法律法を厳格に現代社会に適用せよと説く「セオノミー」は、その存立基盤が崩壊してしまうことにならないか? 主イエスは、「この天地(つまり旧経綸)が滅び去るまでは、律法の一点一角も廃れることはありません」と言われている。つまり、言葉を返せば、古い天地が過ぎ去れば、律法は廃れるということである。
すると、フルプレテリズムは、再建主義の息の根を止めることになりはしないか?
いや、どうも、そうはならないらしい。
なぜなら、主イエスの「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」というお言葉の中に、巧妙に司法律法を忍び込ませて、たとえ天地が過ぎ去っても、司法律法だけは延命できるような解釈学的逃げ道を、再建主義者は必ずや工作するはずであろうから。
その方法は、こうである。
「わたしのことばは決して滅びることがありません」と言われたから、たとえ、律法が廃れたとしても、イエスの言葉は廃れることがない。ところで、イエスの言葉は、律法を廃するものではなく、律法を敷衍し強化するためのものであった。よって、イエスの言葉が廃れないのなら、律法もまた、廃れることは、ありえない。
ここで問題となって来るのが、姦淫の現場を押さえられて連行されて来た女に対する、イエスのゆるしの言葉である。再建主義者は、まず、問題のテキスト自体が後世の付加であり、純粋な本文にはなかったものだと主張する。
百歩譲って、もし原典に当該のテキストがあったとしても、イエスはけして「罪のゆるし」など与えたわけではなく、(1)姦通罪を証明するに足る証人の数が規定より不足しており、(2)女の夫が死刑の訴えを留保したから、イエスは司法律法に従って、「わたしはあなたを裁かない。なぜなら、あなたを裁くに足るだけの規定された要件が足りないから」ということで、女を放免したのだ、と主張する。
かくて、新天新地においても、イエスが敷衍し強化した司法律法は強固に、かつ、永遠に存続し続け、再建主義者のセオノミーのユートピアの夢は、決して消え去りはしないのである。

 

2004年2月12日(木)の日記より

 

奴隷制度の復活

 

旧約聖書の司法律法を現代社会に厳格に適用せよ、と主張する再建主義に対しては、アメリカでは各方面から反対論が起きているが、やはり、個別問題で追求していくことが、効果的な論法のようである。
特に、「奴隷制度」の問題は、再建主義者にとっては触られると痛い急所の部分のようである。なぜなら、再建主義者の中には、奴隷制度の再興に賛成する人たちも存在しており、意見が分かれるところであるからだ。ルイジアナ州のスティーブン・ウィルキンズ牧師
45は、来るべきセオノミーの社会では、奴隷制度は合法化されるであろうと述べているひとりである。
前提主義の考え方に立って、本当に司法律法を適用しようと真剣に考えるならば、奴隷制度を再興することになるのが、素直な帰結であろう。
しかし、前提主義に徹し切ることの出来ない、常識的な再建主義者は、「神が奴隷制度という悪を容認するはずがない」と考えて、奴隷制度の再興を回避する方法を懸命に考えなければならない。当然のことながら、このような考え方は、覚悟を決めた「決然とした再建主義者」からは、「ヒューマニズムの混入」として、断罪されることになるのだ。
常識的な再建主義者は、「カルヴァン主義は人間の自由を拡大する」から、奴隷制度も廃止される、と言う。しかし、純粋なカルヴァン主義が実行された南アフリカ・ケープ地方では、オランダ改革派教会の信徒たちによって、黒人奴隷を使役したブドウ農園が営まれることとなった。「カルヴィニア」と名づけられた町も存在している。
現実に、奴隷に解放をもたらしたのは、カルヴァン主義ではなく、イギリスの帝国主義であった。ケープ地方を占領したイギリスは、奴隷制度を非合法化した。これに反発したオランダ改革派教会
46の信徒たちは、牛車を連ねてケープ地方を脱出し、荒地を苦労して旅した果てに、自分たちの信仰を自由に実践できる新しい国、オレンジ自由国を創設した。この「自由」とは、必ずしも黒人奴隷を解放する「自由」ではなくて、自分たちの(奴隷の使役を含む)信仰の実践の「自由」を意味するものだったようである。
ここには、再建主義の使う「自由」の語法と、同じ種類の感覚が感じられる。南アフリカのアパルトヘイト政策は、異人種間の雑婚を禁じる聖書の律法に基づいて、白人居住地域と黒人居住地域を分離し、「それぞれの人種が、それぞれに文化を発展させ、豊かになるという、人種の多様性と自由とを保障する制度」という建前になっていた。
再建主義者の論文を読んでいると、聖書解釈も含めて、しばしばこの種の「意味のすりかえ」が行われていることに目がつく。「自由」を主張していても、それは、わたしたちが普通考えるような自由
とは、相当に違うものであることに、注意しなければならない。「新天新地」「最後の審判」「再臨」「身体の復活」「オリーブ山が二つに裂ける」「わたしはあなたを裁かない」など、およそ普通のクリスチャンが常識的にそれらから受け取る意味とは、似てもにつかない『本当の意味』を、再建主義者は付与してしまう。
そうして、奴隷制度についても、「聖書の言う奴隷制度は、有期限の債務奴隷制度であり、借金の重圧で一生を潰される現代人にとっては、それはむしろ、自由をもたらすものなのだ」と主張する再建主義者も存在している。だれも考え付かないようなことだが、なんと、奴隷制度は自由をもたらすということなのだ。

 

2004年2月14日(土)の日記より

 

再建主義論争を回顧する

 

米国の過激な右翼思想であるキリスト教再建主義の成否について、一か月以上にわたり熾烈な論戦を戦って来たわけだけれども、結果的には、再建主義陣営内の「フルプレテリスト派」と「パーシャルプレテリスト派」が相互にアナテマ(異端宣告)をし合い、「再建主義陣営が分断される」という、悲劇的結果に終わりつつあるようである。
参照:フルプレテリズム及び洛西キリスト教会奥村拓也牧師について


この出来事をもって、いまや、再建主義者の半数は、再建主義者自身の手によって異端とされてしまったわけである。「そこまではっきり宣告して、どうするのか? 今後は両派は共闘しないのか?」と、敵方ながら驚嘆し、心配し、暗澹たる気持ちにもなろうというものである。
パーシャル派がフルプレテリズム派に対して異端宣告した理由は、ICF掲示板でも何度となく指摘されたように、「世界信条
47と歴史的諸信仰告白48に対して、整合性を欠く」ということであった。
しかし、パーシャル派にしても、司法律法の明確な廃棄を述べているウェストミンスター信仰告白を「異端思想が混入している」と決めつけているわけで、そんなパーシャル派が果たしてフルプレテリスト派に対して「信仰告白に反する」と断罪する資格があるのか、どうか。大いに首をかしげざるを得ない。

ところで、これをもってフルプレテリスト派の再建主義者が異端と断定されたと、仮に認めたとしても、それでは、パーシャルプレテリスト派は胸を張って「自分たちは正統だ」と言えるのだろうか。
ウェストミンスター信仰告白のように、司法律法の廃棄まで明確に言及していないにせよ、大陸系の改革派諸信条には、「世俗的政府は正義をつかさどる神の僕である」という概念や、「自然法
49は神の指によって書かれた」という概念、さらに、自然法の根拠である一般恩恵を指す「自然の光」(ルーメン・ナトゥラーエ) 50という概念が、きちんと記されているのである。
パーシャルプレテリストの再建主義者は、「自然法という概念は異端・異教である」と断言しているのであるから、その論を押し通す覚悟が本当にあるのであれば、単にウェストミンスター信仰告白だけでなく、大陸系の改革派諸信条
51についても「異端思想が混入している」として断罪しなければならないはずなのだ。

こうなって来ると、パーシャルプレテリストの再建主義もまた、フルプレテリストの再建主義と同様に、「歴史的連続性を持たない」「非信条主義的」な思想、ということになってしまう。
ところで、再建主義のテーゼの根幹部分を成す「文化命令」という概念を最初に説いたオランダの政治思想家アブラハム・カイパーは、「一般恩恵と自然法」という概念範疇を立てることにより、「領域主権」を設定し、これを世俗的国家権力の神学的根拠としたのだった。
この領域主権という概念は、実は、新約聖書の世界観的パラダイムと見事な整合性を持っているのであり、パウロ書簡においては、領域主権が「位、主権、支配、権威」という名で呼ばれている。
もちろん、領域主権という神学的概念の実体は神から権力の行使を委任された「天使的勢力」(この世の諸霊)にほかならない、というパウロの考え方は、リベラル神学者から見れば「古代人の神話的世界観」であり、これを現代社会に適用するためには、当然のことながら、現代人の世界観に合うように「非神話化」しなければならないのだ。

そうして、まさに、この点こそが、ウェスレアン・アルミニアンの前千年期王国再臨論者52が、パーシャルプレテリストの再建主義者の喉もとにつきつけた「剣」なのである。
新約聖書の世界観的パラダイムを、そのまま「事実」として認定するファンダメンタリストの立場からすれば、もし「領域主権の実体が天使的勢力なのであれば、それが排除されるのは、キリスト再臨のときである」ということになる。
すなわち、パウロがコリントの信徒への手紙一15:23-26で言っているように:

 (死者の復活には)一人一人にそれぞれ順序があります。
 最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、
 キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。
 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を
 滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を
 支配されることになっているからです。
 最後の敵として、死が滅ぼされます。

上記は、初代教会における古い信仰告白の定式であると考えられており、ヨハネの黙示録の基本的な筋書きは、これを忠実に踏んだものと考えられるが、これを、そのまま解釈するならば:

 1.キリストが再臨する
 2.キリスト再臨と共に、死んだクリスチャンが復活する
 3.再臨したキリストは、天使的勢力を滅ぼし、国家権力を神に引き渡す
 4.最後の敵である死が滅ぼされるまで、神は天使的勢力の仲介を
   経ずに国家権力を直接キリストに託し、キリストは地上を直接統治する

この新約聖書の世界観的パラダイムに、アブラハム・カイパーの「領域主権」の概念を重ね合わせて考えるならば:

 1.キリストが再臨する
 2.キリスト再臨と共に、死んだクリスチャンが復活する
 3.再臨したキリストは、領域主権を解消し、国家権力を神に引き渡す
 4.最後の敵である死が滅ぼされるまで、神は世俗的国家の仲介を
   経ずに国家権力を直接キリストに託し、キリストは地上を直接統治する

ということになるわけである。
つまり、再建主義者が自分たちの政治的テーゼを実現したいのであれば、そのためには、キリストの再臨の日まで、待ち続けなければならないはずなのだ。そうであるのに、再建主義者は「再臨の前に国家権力の領域主権を征服して、神政政治を樹立することが可能である」と主張する。これが、一コリント15:23-24に示された命題的真理とどういじくってみても整合性がないことは、明々白々である。

しかし、「いや、再臨前に神政政治を樹立することは可能だ」と、それでも言い張るのであれば、それは、神が天使的勢力を仲介者に定めて領域主権を設定していると見る「新約聖書の世界観的パラダイム」を否定することとなり、結局は、「自然法は神的でも天使仲介的でもない」とする近代合理主義の世界観的パラダイムに汚染されているのは「再建主義」の方だ、という結論にならざるを得ない。
つまり、パーシャルプレテリストの再建主義は歴史的キリスト教神学と非連続であり、かつ、近代合理主義に汚染されている、ということになるわけである。
さらにまた、ウェスレアン・アルミニアンは「人間理性の自然的本性が堕落していない」などとは決して考えていないのであり、全的堕落には当然人間の理性も含まれているが、その理性は、神が与える一般恩恵により、部分的な真理に到達することが充分可能なのである。それは、パウロが「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命ずるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もそれを証ししており、また、心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」と述べている通りである。
このローマ2:13-15こそ、一般恩恵と自然法を是とする、啓示された命題的真理であり、安易に一般恩恵と自然法を否定する再建主義は、領域主権の否定と同様に、聖書との整合性を持ち得ないのだ。いや。聖書との整合性を持たないだけではない。およそ、人間の歴史の現実とも、整合性を持ち得ないのである。たとえば、このような問い:


 一般恩恵というものが存在せず、全的堕落が人間理性にも及んでいるの
 であれば、異教徒ピタゴラスがピタゴラスの定理を、その理性能力によって
 発見し得たのは、なぜか?


ウェスレアン・アルミニアンなら、この問いに対する答えは、簡単に出る。しかし、再建主義者は、この問いに対して、「幸運な偶然に過ぎない」と答えるしかないのだ。

 

2004年3月2日(火)の日記より

 

自由意志だけで救われる?

 

再建主義者による、下記のような一文を目にした。

>1.人間は、神の恵みなしに、信仰に入ることは絶対にできない。
>
2.救いは、神の一方的な働きである。
>
3.救いを人間の自由意志による、と考えるアルミニウス主義は、実質的に
>
 ローマ・カトリックの信仰と同じである。
>
4.ローマ・カトリックは、人間の全的堕落を信じず、また、被造世界の
>
  全的堕落も信じないので、自然法を唱える。アルミニウス主義も同じ 
>
  である。

どうも、再建主義者は、ウェスレアン・アルミニアン神学のことが、よくわかっていないようである。これは「一般恩恵とは、堕落した人間の理性に対する先験的な神的照明である」という仕組みを、まったく理解していないところから来る誤解であろう。
本当のウェスレアン・アルミニアンであるならば、上記の命題は、次のように書き直すことになる。すなわち:

1.人間は、神の恵みなしに、信仰に入ることは絶対にできない。
2.救いは、神の一方的な働きである。
   ただし、人間は提供された救いを拒絶することが可能である。
3.救いは、人間の自由意志によっては、不可能である。なぜなら、
   人間は、その理性も意志も含めて、全的に堕落しているからである。
   そこで神は、一般恩恵を与え、堕落した理性を照明し、部分的真理へ
   と導く。また神は、特殊恩恵を与え、堕落した意志を照明し、救いの
   真理へと導く。
4.再建主義は、人間の全的堕落のみを説いて、一般恩恵を説かないので、
   この地球上で部分的真理に到達できる異教徒がなぜ存在するのかを
   まったく説明することが出来ない。

最後の命題については、こういう問いを立てることが出来よう。
旧約聖書の司法律法は一夫多妻婚を承認している。しかし、新約聖書を読むと、そこでは一夫一婦婚が勧められている。旧約に対しては新約が優越するので、総合すれば、神の御心は「一夫一婦婚」であると考えられる。ところで、異教徒であるローマ人は「一夫一婦婚」をそのローマ法によって正しい結婚の制度として定めた。 
ここで、疑問が生じる。異教徒であるローマ人は、全的に堕落しているその理性能力を用いて、なぜ「一夫一婦婚」が正しい結婚の形態であるとの知識を得るに至ったのか?
ウェスレアン・アルミニアンなら、こう答える。「恵み深い神は、異教徒のローマ人にも一般恩恵を与えて、その堕落した理性を神的照明で導いたので、ローマ人は異教徒でありながら、結婚について正しい知識を得ることが出来たのである」
再建主義者なら、こう答えるしかない。「恵み深くない神は、異教徒のローマ人には絶対に一般恩恵など与えはしないのであるから、ローマ人がその堕落した理性で、結婚について正しい知識を得ることが出来たのは、単なる偶然にしか過ぎない」
かくて、ウェスレアン・アルミニアンは、異教徒もまた神の栄光を現すことが出来ると考える。
しかして、再建主義者は、異教徒がどんなに優れた美術・音楽・芸術・文学・道徳・技術・学術・発明・発見をしたとしても、それらはすべて「単なる偶然」に過ぎないのであり、神とは何ら関係がないのであり、よって神の栄光にはまったくならないのだと考える(のであろう)。いや、むしろ、それらは、堕落した理性や感性による「自律」のなせるわざであるから、再建主義者は「サタン的」というレッテルさえ、貼ろうとするのである。
さて、いったい、どちらの考え方が、本当の「栄光の神学」なのであろうか?

 

2004年3月4日(木)の日記より

 

自然と恩寵の問題

 

故フランシス・A・シェーファーは、「自然が恩寵を食い滅ぼす」という思想史の図式により、現代思想と現代文化の成り立ちを明快に描いて見せた。その結論は、現代文化における「人間の数値化と無意味化がもたらす絶望。そうして、その絶望からの脱出である「理性からの逃走」である。
ところで、「自然と恩寵を対立図式で考える思考方法は、必ず理性への絶望と、理性からの逃走をもたらす」という命題は、どうやら再建主義にもあてはまるようなのである。
もちろん、上記命題をシェーファーが唱えたのは、直接的には、カール・バルト
53を「信仰の飛躍」による理性からの逃走であるとして、バルト神学を批判するためのものであったのだ。
ところが、再建主義者の文章を読んでいると、「わけがわからなくても従え」という、理性による知解を廃した絶対的服従が、強調されているからである。再建主義の文脈においては、「自然=理性」という読みかえによって、自然の否定、理性の否定が、説かれているのだ。
これを見ると、わたしなどは、シェーファーが言った「理性からの逃走」というのが、バルト神学のみならず、再建主義の神学でも起きているのではないか?という危惧を抱いてしまうのである。

再建主義は、ドイツの改革派の神学者コッツェーユスの契約論を根幹として聖書の救済史を捉えようとしているようだが、カール・バルトもまた、弁証法神学を展開する中で、ピューリタンの著作を通してコッツェーユスの契約神学を再発見し、これを自己の聖書理解の根幹に導入して、バルト神学を形成したわけである。廃れたと思われた契約神学が、現代において復活をしたのは、バルトの功績が大きいわけであるが、再建主義は、ファンダメンタリストとして古い改革派神学へのルーツを追求する中で、契約神学をメインに据えるようになってきたのだと思われる。

ここで、問題となるのが、シェーファーの言った「自然と恩寵を対比させると、必ず自然が恩寵を食い滅ぼす」という命題である。
コッツェーユスの場合、救済史を、第一のアダムの「業の契約」と第二のアダム(キリスト)の「恵みの契約」という二契約論で理解しようとするわけだが、これであると、「自然vs恩寵」という、対立図式になってしまうわけである。
一部の再建主義者が「ウェストミンスター信仰告白には、西方教会の『自然』『自然法』という誤った概念が混入しているゆえに、毒麦が混じっている」と主張するのは、この「自然vs恩寵」の図式で考える二契約論を危惧しているわけである。

そこで、二契約論再建主義と、非二契約論再建主義という、二つの立場が、パーシャルプレテリズムの再建主義陣営の中に存在するという構図になっているのが、現状である。
非二契約論再建主義者は、第一のアダムは、業の契約ではなく、「恵みの契約」の下にいたのだ、と説くことによって、「自然vs恩寵」の対立図式を回避しようとしている。
これに対して、旧来の契約神学に忠誠を尽くす二契約論再建主義者は、第一のアダムは、あくまで、「業の契約」の下にいた、という反論を展開するわけである。

さて、二契約論再建主義で思考するならば、それは結局、「自然vs恩寵」の図式を保持するわけだから、シェーファーが危惧したように、最終的には「理性からの逃走」へと至るしかないわけである。それを裏付けるかのように、二契約論再建主義者は「わけがわからなくても従え」という理性否定を言っている。
ところが、非二契約論再建主義で思考するならば、それは、「恩寵+恩寵」の図式になってしまい、これでは自然の場所を持たないスコラ神学以前のヴィザンチン文化
54に類似してきてしまうのである。(シェーファーの息子のフランキー・シェーファーが、この路線を進んだ結果、最終的にはギリシャ正教会に改宗してしまったことは、よく知られている)

これに対して、いったい、どう考えるべきなのか?????
シェーファーは、「自然vs恩寵」という対立図式を最初に描いたのはスコラ神学、特に、トマス・アクィナスだと指摘したことによって、スコラ神学はA級戦犯であるかのように言う福音主義者が、割合多いのは事実である。
しかし、忘れてならないのは、「トマス・アクィナスは、自然と恩寵を上手くつなぐ方法を持っていた」ということを、シェーファーが述べていることである。
それでは、自然と恩寵をつなぐもの、とは、いったい、なんなのか?

それは、宗教改革がスコラ神学から受け継がなかった「忘れ物」リストの中に記載されているのであって、その最大のものが、アクィナスの精緻な天使論である。
この天使論は、もちろん、スコラ神学の独創によるものではなく、ちゃんと新約聖書神学と古代教父の中に淵源を持つものであるのだ。特に、中間時の中間領域における天使的勢力と中間倫理を述べたパウロ神学、また、天使の堕落を国家権力の起源と見たアウグスティヌス神学が、スコラ神学の天使論の直接的な根拠となっている。これは、「自然vs恩寵」という対立図式ではなく、「自然vs仲介者vs恩寵」という三項図式で世界を見ようとする世界観的パラダイムであり、新約聖書神学の背景である世界観的パラダイムと、きちんとした整合性を持ったものなのだ。

このような世界観的パラダイムを、聖書に啓示された救済史に適用して見るならば、次のような展開を描き出すことが出来る。

1.自然と恩寵の調和状態としての、堕罪前のアダム及び世界
2.アダムの堕罪による自然と恩寵の分離
3.自然と恩寵の直接衝突を回避するための「中間領域」の設置
  創世記3:24「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、
  エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」
4.中間領域(天使的勢力)のカテゴリーに入るもの
   ・領域主権(位、主権、支配、権威の諸霊)つまり国家
   ・律法の仲介者、養育係、後見人つまり旧経綸に関わる諸霊
   ・サタン、堕落天使、悪霊、死の使い
   ・異教の諸霊
5.神は、直接人間に関与せず、中間領域の仲介者を介して関与する
   ・主の使い
   ・死の使い
   ・主からの悪霊
   ・天の会議でヨブのことを報告し、神の許可で災いをヨブに
    与えたサタン
   ・律法付与の際に仲介した天使
6.キリストの出来事(十字架・復活・高挙)によって、天使的勢力は
  打ち破られ、キリストに対して従属させられた
7.キリスト再臨まで、天使的勢力はまだなお残存し、旧経綸のもとで
  の活動を継続している
   ・国家
   ・律法主義
   ・サタンと悪霊
   ・異教の神々
8.キリスト再臨において、天使的勢力は滅ぼされ、自然と恩寵の間で
  緩衝地帯として機能してきた「中間領域」は解消される。
  なぜなら、受肉によって恩寵と自然が調和した「神・人キリスト」が
  再臨し、そのときに、すべてのキリスト者が「キリストに似た姿に
  変えられる」ことにより、キリスト者においても「自然と恩寵の
  完全な調和状態」が与えられ(復活体)、このようにして、もはや、
  中間領域の存在の合理的必要性が消滅するからである。

以上のようになるであろう。

ところで、クルマンが救済史的手法によって中間時の中間領域と中間倫理の問題を『キリストと時』で扱っていた一方で、ドイツの弁証法神学者たちの間では、「自然vs恩寵」を巡る論戦が戦わされていた。エミール・ブルンナーとカール・バルトの長年にわたる「自然vs恩寵」の神学論争は、結局のところ決着がつかなかったのであるが、これを解決する神学的方法が唯一あるとするならば、「キリスト論的解決」すなわち、「受肉したキリストにおける自然と恩寵の調和」において、自然と恩寵の対立図式の克服を見る、という行き方がある。
この「受肉における自然と恩寵の調和」を、徹底的終末論のラインで展開するならば、キリスト者が復活と栄化によって「キリストに似た姿に変えられる」という、「栄化における自然と恩寵の調和」という克服の仕方が考えられる。
そうして、まさにこれこそが、ウェスレアン・アルミニアンの「栄化の神学」「終末論的聖化の神学」の真骨頂なのだ。つまり、キリストの受肉において、自然と恩寵の対立は克服され、「自然と恩寵の調和」が歴史の中に突入してきた。これが終末論的な現在なのだ。そして、キリストの十字架と復活と高挙によって、「中間領域」は打破され、キリストに従属させられた。ところが、キリスト再臨までは、中間領域は消滅せず、なお、旧経綸のもとにあって、その活動を持続させる。なぜなら、中間時においては、まだすべての人がキリストと結ばれておらず、自然と恩寵の調和に参与していない人々がいるからである。また、自然と恩寵の調和に参与し始めているキリスト者といえども、まだ、その体が贖われておらず、「完全にキリストに似た者になる」という栄化に達していないからである。それゆえ、中間時においては、中間領域(天使的勢力)は、まだ、なお、自然と恩寵の間にあって、緩衝地帯・仲介者としての機能を果たし続けなければならないのだ。これは、創造の秩序の後に位置し、新創造の秩序の完全な現われの前に位置する、「堕落した世界の秩序」(旧経綸)と言うべきものである。

さて、再建主義に話しをもどせば、どうやら、再建主義者は、一般恩恵というようなものは存在しないのだ、と言いたいらしい。では、異教徒ピタゴラスがピタゴラスの定理を発見できたのは、なぜなのか? その「全的堕落」にもかかわらずに????
これに対する逃げ道は、理性能力の一部をイマゴ・デイ
55に求めることである。イマゴ・デイなのだ、ということにすれば、一般恩恵を否定して、創造の秩序の中に問題のありかを移植してしまうことが可能になる。しかし、これは、ブルンナーとバルトのイマゴ・デイ論争での焦点となったように、「イマゴ・デイは完全に失われたのか?」「部分的に失われたのか?」「失われてはいないのか?」「イマゴ・デイに理性能力を還元することは是か非か?」という、さらなる問題をひきおこしてしまう。
だいたい、イマゴ・デイは部分的に歪んだだけだから、理性能力に致命的な影響はなかったのだ、というように考えるのだとしたら、それが果たして「全的堕落」と言えるのだろうか? むしろ、「部分的堕落」なのではないだろうか?
この場合、人間はその理性能力も含めて全的かつ徹底的に堕落したのだが、先験的に与えられる一般恩恵によって支えられ、光を与えられているので「ピタゴラスはピタゴラスの定理を発見できた」と考えるウェスレアン・アルミニアンの方が、「真の全的堕落の信奉者」だと言えるのでは
ないだろうか?

 

2004年3月6日(土)の日記より

 

パーシャルプレテリズム派の行方

 

パーシャルプレテリズム派がフルプレテリズム派をアナテマ(異端宣告)したことによって、分断されてしまった再建主義陣営であるが、今後は、パーシャル派の中で、二契約論再建主義と、非二契約論再建主義の議論が進展していくことになるであろう、と予測する。

再建主義は、ヒューマニズムへの徹底的批判、つまり、人間の自律と自然および自然法を批判するわけである。批判するためには、批判の対象である「自律」「自然」が、この世界に現実のものとして存在するのでなければならない。なぜなら、存在しないものを批判することは、意味がないからだ。

ところで、再建主義の本流を自負する人々は、超保守的な改革派神学に立っているようである。すると、当然のことながら、予定論に関しては、最も厳格な立場、すなわち、スープララプサリア二ズム(堕罪前予定説)を採用するわけである。
ここが問題点なのであって、スープララプサリア二ズムは、神による決定論的世界観へと導くことになり、その結果、この宇宙における「自律」と「自然」の場所が、完全に消え去ってしまうことになるのだ。つまり、あらゆることが恩寵によって支配されているので、自律の領域は、この宇宙に砂粒ひとつぶほどの場所すら、存在しないことになってしまうのである。

実は、スープララプサリアニズムがもたらす「自律の消滅」に対して、「自律の保障」を行うバランシング・システムが、二契約論なのである。つまり、第一のアダムの契約が「業の契約」であったとすることによって、かろうじて、この宇宙に「自律の領域」を担保することが可能になるのだ。

よって、スープララプサリアンは、たとえどんなことがあろうとも、死ぬまで必ず二契約論を守り抜き、保持し続けていかなければならない。そうでないと、この宇宙は決定論的な宇宙となり、自律の領域が消滅し、その結果、再建主義が攻撃し批判を加え、キリスト者が征服すべきであると唱えている当の対象である「自律」「自然」「自然法」が、そもそも、存在しないことになってしまうのだ。これでは、再建主義のすべての政治的アジェンダが、ナンセンスになってしまう。

しかし、そうであるなら、「業の契約」を主張し続けて行けば、すべて上手く行くのであろうか?
二契約論再建主義者は、そのようにして「自然」を確保することが出来たとしても、その結果、シェーファーが指摘したように、「自然への絶望」「理性への絶望」「理性への否定」へと論理的に推移して行くことになり、そうして、ついに「理性からの逃走」へと至ることになる。それが、「わけがわからなくても従え」という二契約論再建主義のモットーになるわけである。

 

2004年3月7日(日)の日記より

 

6.再建主義論争の今後の展望

 

さて、以上が今回の議論の全貌ですが、今後どのような議論の展開が考えられるのでしょうか? 小生は次のような問題提起を考えています。

 

1.再建主義者は、異教徒の理性能力を、イマゴ・デイ説でどこまで説明しきれるか?

 

2.再建主義者は、一般恩恵を肯定したカルヴァンと、一般恩恵を否定する自分たちとの間の、歴史的非連続性を認めるのか?

 

3.パーシャルプレテリズム派は、「スープララプラサリアン+二契約論再建主義」と、「インフララプサリアン+非二契約論再建主義」と、どちらに収束するのか?

 

4.シェーファーは、キリスト者は神学的見解の相違を保留して、主張が一致する項目について「共同戦線」を組むべきであると言ったが、フルプレテリスト再建主義とパーシャルプレテリスト再建主義との「共同戦線」は、今後はもはや形成され得ないのか?

 

5.シェーファーが危惧した「自然が恩寵を食い滅ぼす」「理性への絶望」「理性からの逃走」が、実はバルト神学と同様に、再建主義神学においても起きているのではないか? この危惧に対して、理性・自然・自律・一般恩恵・自然法を頭から否定してかかる「スープララプラサリアン+二契約論再建主義」は、どのような回答を出すことが出来るのか?

 

6.「インフララプサリアン+非二契約論再建主義」は、ウェスレアン・アルミニウス主義とのパラダイム的な類似性・近似性を認める用意があるか? 認めないのであれば、どこでその差異を確保しようとするのか?

 

こんなところでしょうか。

 

7.論争の終わりにあたって

 

「聖書に基づいて、堕胎者の公開処刑を政治的アジェンダに載せているキリスト者グループがいるらしい」ということから、関心を持ち始めた再建主義神学でしたが、今回の再建主義者との議論を通して、改めて、「ウェスレアン・アルミニウス主義+前千年期再臨説」という自分の立場に対して、神学的な確信を強めることが出来ました。

 

フランシス・A・シェーファーが『理性からの逃走』と『それでは如何に生きるべきか?』で提示した命題は、「自然と恩寵を対比させる二元的思考法は、必ずや、自然が恩寵を食い滅ぼすことになり、その結果、理性に絶望し、理性からの逃走に至ることになる」というものでした。そうして、確かに、現代社会は「無意味と孤独と絶望」が、色濃く影を落としている社会であることを見れば、シェーファーの提示した枠組み説が正しいらしいことを、感じさせるのです。

 

しかし、キリスト教神学は、再建主義以外に「絶望から脱出する道」を持ち得ないのでしょうか? 「無意味と孤独と絶望」を回避するためには、「聖書の司法律法に基づいて堕胎者を公開処刑する」という道を選ぶ以外に、本当に道がないのでしょうか?

 

そんなことは、なかったのです。

 

キリスト教神学には、再建主義によらずとも、「無意味と孤独と絶望」から逃れる、もっと確実な道が存在しているのです。それが、「ウェスレアン・アルミニウス主義+前千年期再臨説」という神学的なコンビネーションなのです。それは、次のような「希望の道」を、わたしたちに指し示すのです。

 

1.       ウェスレアン・アルミニアンは、アダムの堕罪によってイマゴ・デイが損なわれ、人間は全的に堕落した、と考えます。この全的堕落は、人間の理性能力・道徳的能力・社会的能力・霊的能力のすべてにわたっています。

 

2.       ウェスレアン・アルミニアンは、恵み深い神が、堕落したすべての人間に対して、何らの差別なく、等しく「一般恩恵」をお与えくださる、と考えます。なぜなら、神は「すべてのものの父」であり「善人にも悪人にも光を照らしてくださる」お方だからです。人間は、この一般恩恵によって支えられ、強められ、導かれるので、全的に堕落しているにもかかわらず、本来の理性能力・道徳的能力・社会的能力・霊的能力が部分的に回復されて、一定の秩序ある社会生活を営み、文化と文明を形成することが可能になります。それゆえ、過去・現在・未来の人間のあらゆる文明と文化は、神と全く無縁な自律と自然なのではなく、むしろ、神の一般恩恵によって支えられ、一般恩恵によって保たれているものなのです。

 

3.       ウェスレアン・アルミニアンは、恵み深い神が、堕落したすべての人間に対して、何らの差別なく、等しく「特殊恩恵」をお与えくださる、と考えます。なぜなら、神は「ひとりの人間も滅びることを願わず」「御子イエス・キリストをお与えになった」からです。人間は、この特殊恩恵によって、聖霊の照明を受け、聖書の啓示を理解し、信仰の賜物を与えられて、キリストを救い主と信じ、告白し、救いの恵みに与るに至ります。しかし、神はまた「愛の神」であるゆえに、人間を機械としては扱われず、人間が、一般恩恵によって支えられたその自由意志を行使して、提供されたキリストの救いを拒否することを、お認めになります。

 

4.       ウェスレアン・アルミニアンは、救いの恵みに与った人間は、内住の聖霊の働きによって、キリストに結合され、「人となられた神」であるキリストに似た者に変えられる、と考えます。この全人格的な変化は、回心に続く第二の転機である「瞬間的聖化」をもって開始され、一生涯にわたる「漸進的聖化」において進行し、キリスト再臨時の「復活と栄化」をもって完成されます。こうして、人間が、「自然と恩寵を受肉によって完全に調和させたキリスト」に似た姿に完成されることによって、自然と恩寵の対立がキリスト論的に克服されるのです。

 

5.       前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニアンは、地上において福音の宣教が、いまだその途上にあり、救いの恵みに与った人間においてすでに自然と恩寵の調和が開始されているとしても、いまだ福音を知らず、救いを受けていない人間が多数存在していることを、認識します。その意味で、現時点においては、なお地上に自然と恩寵の不調和が存在し続けているのです。しかし、恵み深い神は、地上において自然と恩寵が直接衝突することがないように、天使的勢力を立てて、「中間領域」を設置されました。中間領域の天使的勢力は、自然と恩寵の間にあって仲介者として機能しています。中間領域には、神に従う天使、神に反逆する天使、神に対して中立の天使が存在し、それらの天使的勢力が、神から委託された権威を行使して、主の御使い、国家権力、律法主義、サタンと悪霊、異教の諸霊として活動し、これにより、自然と恩寵が分離した世界において、人間が秩序ある生活を営み、多様な文化と文明を形成することが可能とされているのです。この中間領域は、キリストの十字架と復活によって打ち破られましたが、キリストが再臨するまでは(つまり、中間時においては)いまだ存続し、活動し続けています。

 

6.       前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニアンは、世の終わりにおいて再臨されるキリストが、その再臨の輝きによって、神に反逆する天使的勢力を滅ぼし、中間領域を解消して、地上における国家権力、律法主義、サタンと悪霊、異教の諸霊の活動を、完全に終わらせられる、と考えます。こうして、キリストは「地上の国」を父なる神に引き渡されます。そして、最後の敵である「死」が滅ぼされるまで、黙示録が述べている通り、キリスト御自身が千年にわたって地上を直接統治なさいます。この「千年王国」においては、「自然と恩寵を受肉によって完全に調和させたキリスト」と「キリストに似た姿に完成された聖徒たち」が、「地の支配」を行います。こうして、アダムの堕罪によって失われた「地の支配」が、自然と恩寵が完全に調和した千年王国において、回復されるのです。

 

7.       前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニアンは、キリストが再臨されるまでは、中間領域である国家権力が、神によって設定された「法領域」あるいは「領域主権」として、神に由来する使命を遂行し続ける、と考えます。これに対して、救いの恵みに与った人間は、それらの人間のキリストにある集団的結合体である宇宙的な「キリストのからだ」を構成し、この「キリストのからだ」は、「自然と恩寵を受肉によって完全に調和させたキリスト」の生けるからだそのものであるゆえに、もはや、中間領域に対して従属しておらず、むしろ「天使をも裁く」立場にある、と考えます。それにもかかわらず、中間時におけるキリスト者の倫理(中間倫理)として、聖書が「国家権力に従いなさい」と命じているゆえに、救いの恵みに与った人間は、国家権力に服従し、法が人定法・自然法・神定法・永遠法のいずれであるかを問うことなく、国家権力が定める限りにおいての法をすべて遵守し、法が課す義務を果たすのです。しかし、中間領域の天使的勢力が、神に反逆し、その悪鬼的性格を国家権力においてあからさまに顕現させた場合においては、キリスト者は、聖霊に照らされ聖書に導かれた良心に従い、決然とした態度で、悪鬼化した国家権力を裁きます。悪鬼化した国家権力が、それでもなお、良心に背く事柄を強制しようとするなら、その事柄のみに限り、キリスト者は国家権力に対して抵抗します。そうして、そのために殉教することになるのであれば、それこそが、「キリストに似た者」となるための最善の道であると考えるのです。

 

8.       前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニアンは、救いの恵みに与った人間が、キリストに似た姿へと変えられる過程において、キリストの愛に動機付けられた隣人への奉仕を、自らの生涯にわたる使命として行うようになる、と考えます。この「聖徒たちの愛のわざ」は、「キリストのからだ」において組織化され社会化されて、「地球規模の愛のわざ」となり、その結果として、他者に仕えるための、あらゆる種類の社会福祉事業、医療事業、教育事業、地域開発事業、社会改良事業、人権擁護活動、環境保護活動が展開されることになります。このようにして、「自然と恩寵を受肉によって完全に調和させたキリスト」が、御自分の生けるからだの働き、すなわち「聖徒たちの愛のわざ」によって、堕落した世界において痛み傷ついている人間を、全人格的に救い、かつ、いやされるのです。

 

上記の八項目に要約される、「前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニウス主義」は、その世界観的パラダイムにおいて、シェーファーの言う「自然vs恩寵」の二元的思考法から完全に解放されており、それゆえに、「理性への絶望」と「理性からの逃走」へと到ることが、論理の上でも、実践の上でも、決してないのです。それゆえ、「無意味と孤独と絶望」の現代社会において、「それでは如何に生きるべきか?」と問うのならば、前千年期再臨説を採るウェスレアン・アルミニウス主義こそが、わたしたちの進むべき、まことの「希望の道」であるだろう、と小生は思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

《付随的論考》

 

アブラハム・カイパーの政治文化神学上の概念である「領域主権」と、国際法学上の概念である「領域主権」を、それぞれの概念の相違を保持しつつ、両者共に「中間領域の天使的勢力」のカテゴリーに入れ得ることの可能性について

 

二世紀の初代教父アレキサンドリアのクレメンスの神学的パラダイムにおいては、唯一の神の言葉(ロゴス)であるイエス・キリストが、それぞれの民族に、その民族を導く天使を通じて、その民族固有の知恵の形態を分かち与えた、と考えられている。(ジャン・ダニエルー『キリスト教史1 初代教会』pp.276-177.

 

このパラダイム図式を、国際法学上の「領域主権」の概念と重ね合わせて見るならば、絶対主権者である三位一体が、頭首権者であるイエス・キリストにおいて、「国家の絶対主権」を、仲介者である天使的勢力(位、主権、支配、権威)に対して、地政学的な排他的権利領域に即して委任し、天使的勢力は、それぞれの国家において、法による統治を行う。この意味での法の支配に従属する主体が「国民」である。

 

このパラダイム図式を、アブラハム・カイパーの政治文化神学上の「領域主権」の概念と重ね合わせて見るならば、絶対主権者である三位一体が、頭首権者であるイエス・キリストにおいて、「社会の分散主権」を、仲介者である天使的勢力(ストイケイア=宇宙の構成に関わる諸霊)に対して、宇宙論的な15の法領域(数的、空間的、運動的、物理的、生物的、感覚的、論理的、歴史的、言語的、社会的、経済的、美的、法的、倫理的、信仰的)に即して委任し、天使的勢力は、それぞれの法領域において、法による統治を行う。この意味での法の支配に従属する主体が「市民」である。

 

上記のようにして、国際法学上の「領域主権」と、アブラハム・カイパーの政治文化神学上の「領域主権」とを、両者の概念の相違を保持したまま、「中間領域の天使的勢力」のカテゴリーに、整合的に取り入れることが可能になる。

 

ところで、新約聖書においてパウロは、「中間領域の天使的勢力」のカテゴリー内に、(1)国家権力、(2)異教の神々である諸霊、(3)律法の仲介者・制定者・養育係・後見人である諸霊、(4)この世(異教文化)を支配する諸霊、(5)宇宙の構成に関わる諸霊(ストイケイア)という、種々雑多な概念を、まとめて入れてしまっている。これは、現代人にとって理解し難い事態である。それゆえに、新約聖書神学においては、綿密な聖書テキストの釈義が行われる一方で、非神話化の必要性が言われているわけである。しかし、上記で述べたように、国際法学上の概念である「領域主権」と、アブラハム・カイパーの政治文化神学上の概念である「領域主権」を、両者の概念的相違を保持しつつも、両者共に「中間時の中間領域における天使的勢力」に組み入れて考えてみた場合、パウロに見られる新約聖書時代の世界観的パラダイムを、矛盾なくきれいに説明することが出来る「整合的概念モデル」を提示することが可能になるのである。

 

このような世界観的パラダイムにおいては、非キリスト教である諸宗教が、真理を追究しつつも・体験と解答において多様であり、真理契機を含んでいながらも・誤謬を含んでおり、社会的秩序の安寧と個人的内面の平安を与えつつも・悪鬼的性格を顕現することがあり、聖書の啓示内容と類似するものを持ちつつも・聖書とは似て非なるものを含んでいる、というような、キリスト教的観点から見た諸宗教の在り方が、「なぜそうなっているのか」を、世界観的に整合的に説明することが可能になる。すなわち、諸宗教は、「自然」に属しているのでもなく、「恩寵」に属しているのでもないが、一方の極において「自然」と接しており、他方の極において「恩寵」と接している「中間領域」であると考えることが出来る。つまり、諸宗教は国家権力と同様にして、アダムの堕落後の「分裂した自然と恩寵」の間にあって、自然と恩寵との直接衝突を回避するために、神によって設定された緩衝地帯として機能する中間領域である。「自然と恩寵の完全な調和」であるイエス・キリストが歴史の中に突入し(初臨)、キリスト高挙によって、自然と恩寵が調和された宇宙的共同体である「キリストのからだ」(教会)が出現せしめられ、「キリストのからだ」の完成者であるキリストが再び来られる(再臨)のを待ち望みつつある現在、すなわち「中間時」においては、いまだ「キリストのからだ」に包摂されていない多数の人類が存在し続けている。神は、これら、いまだ「キリストのからだ」に包摂されていない多数の人々が、秩序ある安寧な社会生活を維持し、静穏な人生を過ごすことが出来るよう保障するために、「中間時の中間領域における天使的勢力」を設定し、これに対して「領域主権」を委任した。このようにして人類には、天使的勢力が統治する多様な諸国家・多様な諸宗教・多様な諸文化が、神からの「一般恩恵」の一部として、あるいは、堕落後の「創造の秩序」として、あるいは、「旧経綸」として、あるいは、「贖いの賜物」として、与えられている。それらの天使的勢力は、キリスト高挙によって打破され、武装解除され、中性化された天使的勢力であり、それゆえに、キリストの頭首権の下に服して、中間時における使命を遂行しているものの、本来的にはその内に悪鬼的性格を潜在させており、また、しばしば、その悪鬼的性格を顕在化させることがある。しかし、「自然と恩寵の完全な調和」が実現するキリスト再臨の日において、それらの天使的勢力は滅ぼされ、中間領域は解消されて、歴史と共にその使命を終焉させることになる。

 

以上を踏まえて、聖書テキストを見るならば、コリント前書1524「終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」(口語訳)という命題的真理は、「再臨の日における、『国家の絶対主権』に関わる天使的勢力の終焉」として、理解することが出来るし、一方、ペテロ後書312「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素(ストイケイア=宇宙の構成に関わる諸霊)は燃え尽き、熔け去ることでしょう」という命題的真理は、「再臨の日における、『社会の分散主権』あるいは『宇宙論的な15の法領域』に関わる天使的勢力の終焉」として、理解することが出来るであろう。

 

参照文献

「オスカー・クルマンによる、パウロ神学に見る後期ユダヤ教の天使論の影響についての論考」および「ヘンドリクス・ベルコフによる、民族・文化・宗教・国家を支配する『ストイケイア』(宇宙の構成に関わる諸霊)についての論考」

 

 

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 ◆断想

 ◆ゲネア問題完結編

 ◆『聖書律法綱要』「第二戒・法の座」論への終末論的ウェスレアン・アルミニアンによる対抗論

 ◆フルプレテリズム101を反駁する

 ◆新約聖書神学の世界観的パラダイムに基づく、三位一体的統治の概念図

 

 

<キリストの王権的頭首権的世界統治の証明聖句>

ペトロ前書3:22

キリストは、天に上って神の右におられます。

天使、また権威や勢力は、

キリストの支配に服しているのです。

 

 

 

 

 

 

 

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